元関脇荒瀬さん死去
2008.08.13

火曜(8/12)、元関脇荒勢死去が報じられた。北京五輪中ということもあり扱いは小さかったが、私は朝刊の訃報に最初に目がいってしまった。荒勢関とはそのぐらい濃厚なお付き合いをさせてもらった。

昭和50年代前半の相撲界は、阿佐ヶ谷VS両国の図式だった。阿佐ヶ谷の旗頭は『花籠部屋』だった。横綱輪島、大関魁傑、関脇荒勢を擁して破竹の勢いだった。私もしばしば花籠の朝稽古に通った。魁傑とは同年齢ということもあって親しくなり、輪島は少々我が儘だったが、根は正直者のお人好しということもあって打ち解けた。ただ、荒勢だけはつかみどころがなく、軽口を叩くまで時間がかかった。ところが、何がきかっけになったのだろうか・・・。その後、食事する機会が次第に増えていった。

荒勢が引退して間垣襲名後まもなくの初夏の夜。彼から誘われて新宿御苑近くのカフェバーに赴いた。全くの下戸の荒勢(間垣親方)は初めてアルコール少なめのコークハイを注文した。『何かあるな・・・』と身を乗り出すと、おもむろにこう切り出した。
「(相撲)協会を辞めることにした。」
驚く私に、さらに畳み掛けるように「俳優になろうと思う。」と続けたのだ。
「故郷の先輩(作家宮尾登美子さん)からお誘いをうけた。今が決断のときだろうと考えた。」と想像を超える話になった。宮尾先生も彼も高知県出身だ。納得できる話だ。それよりも、折角の親方業を放り出すのか・・・と、じっと彼の眼を見詰めてしまった。

いまもそうだが、年寄り株を取得するには財力も運も人脈も必要だ。果たして間垣株はどうなるのか。そんな私の気持ちを見透かしたように、
「この間垣は若乃花に譲ろうと思う。」と打ち明けたのだ。

当時の横綱若乃花は急激に体力が衰え、ケガに泣き、引退は時間の問題と言われていた。だが、さまざまな障害から年寄り株が手に入らないのだ。交渉が大詰めになると、大きな力が働いて話がご破算になること度々だった。まさに四面楚歌だったのだ。

「若乃花と別に手が合ったわけでもないのに何故、彼なの?」と、踏み込んで聞くと、荒勢はきっぱりとこう言った。
「横綱まで昇りつめた力士が(年寄り)株を手にできないで右往左往している。私情で邪魔している人間がいる。俺はそういう角界がつくづくイヤになった。間垣を譲るなら若乃花しかない。」と、話したのだ。

日大から花籠に入門し、一匹狼のように歩いてきた荒勢は、最後の最後に相撲界に強烈なぶちかましを見せたのだ。
龍馬を生んだ土佐のイゴッソウの血がそうさせたのであろう。

 

 

Copy Right(C) Radio Power Project. All Rights Reserved